青春の殺人者レビュー

監督 長谷川和彦
製作
1976年 日
出演
水谷豊、内田良平、市原悦子、原田美枝子、


千葉県の郊外。父の援助で順がスナックをオープンしてから3ヶ月がたとうとしていた。順の幼なじみで恋人のケイ子がウエイトレスとして住み込みで働いていたが、2人の仲を良く思わない両親と順との間には諍いが絶えなかった。それは母が買い物から帰宅したときだった。順が父の死体の前で呆然とたたずんでいた・・・。



いろいろな意味でスキのない映画でした。
なんだか、もの凄く頭のいい人たちが色々考えて作ったんだろうな、という印象。
学のなさそうな両親とその息子の割には、ヤスデだのイチジクの象徴的意味だの、言ってることが高尚すぎるんじゃあ。

『ペニス傘持ちホーデン連れて、ゆくはヴァギナのふるさとへ』

のっけからこんなスケベ歌を原田美枝子に歌わせてて、
「これだから東大出身のインテリはよー(監督のこと)」
とか思いましたが。

原田美枝子は可愛いですが、もんの凄く台詞が棒読みでした。声質も悪いしなんなんだ一体、と思っていたら裸が凄かった。すごい豊満なのね。知らなかったわ。これで17才。その年でこの脱ぎっぷりか。たいしたものだ。これなら棒読みでも許されるな。いやむしろ、台詞回し云々よりもカラダに説得力がないと、この役は出来ないんだろうな。台詞回しはともかく、動きとか表情は良かった。まさに『体当たり』って感じで。

しかし、原田美枝子が棒読みなのは分かるんですが、なんで水谷豊まで棒読み口調になっているのか。
おかしい。<傷だらけの天使>を見る限りでは、この人はこんな演技をする人ではないはずなんだが。
全編アフレコだという話もどこかで聞いたので、そのせいでしょうか。うーん。
まあ取りあえずそれはおいといて。

水谷豊も裸が絵になる人でした。細身なのに、腹筋がしっかり綺麗に6つに割れてるのね。でもマッチョじゃないの。着やせするタイプなの。
だめ、こういう<意外性>に私弱いの。華奢で小柄で貧相に見えるくせに実は筋肉質で、むきだしの二の腕が意外にも逞しかったりするから、そこに男の色香を感じてくらくらし・・・。

すみません、話の方向性がそれてしまいました。戻します。

そういうわけで、脱いだら凄いカップルが主役なわけですが、なんだかこの二人だと、年齢差のせいか、そもそもこの二人が持っている特性のせいか、肉体関係のある男女が醸し出す生々しさみたいなものはあまり感じられない・・・。じゃれ合う子猫達のようなあどけなさと可愛らしさは感じるのだけれど。
話は前後しますが、ストーリーの後半に、両親の死体を二人でシートに包み、その後風呂場で体を洗い(二人とも全裸です)、そのまま水谷豊が原田美枝子を抱いて二階に上がり、部屋で抱き合うシーンがあります。
このあたりも、あまりエロスを感じない。ただひたすら綺麗なだけで。
無駄なく鍛え上げられた水谷豊の肉体と、優美な曲線のみで構成されている原田美枝子の肢体は、それぞれ男性性と女性性を象徴していて、両者とも理想的な形で存在しているが故に、エロスの入り込む余地がかえってないのだろうか、なんて思ってみたりするのですが。

そしてそんな二人の対極にいるのが、市原悦子演じる母親(の半裸)です。
服を脱ぎだして下着姿になったときは、
(いきなりなにしやがんだ、このババア)
と殺意を抱きました。むしろ私が。
もうね、この贅肉の付き具合とか、たるみ具合とか、ご丁寧に脇毛まで伸ばしてるあたりが、自分の母親の半裸を目の前に晒されてるようで、ものすっごく陰鬱な気分になりました。うええええ。

生理的嫌悪感を催させるような崩れかけた肉体と、<女>の本性剥き出しにして、彼女は息子に迫ります。

「ねえ、一緒に、アレ・・・しよう」

うわああん。怖いよう。私にとって市原悦子といったら<マンガ日本むかし話>のナレーションもしくは<家政婦は見た>なんだよう。今とほとんど変わらないあの姿とあの声でそんな台詞吐かれた日には、そりゃあ殺意の一つや二つ持ちかねない。

母と息子の殺し合いのシーンですが、攻守逆転して息子の方が母親を組み伏せたあたりから、私の目にはこれがレイプシーンに見えてしまってねえ。だって男に組み伏せられた半裸の女が、瞳を潤ませて「そおっとやって・・・痛くないようにして」ですぜ。思わず「初体験かよ!」とツッコミを入れてしまった、そんな自分の感性に疑問を抱く今日この頃。
太古の昔から親殺しと近親相姦は人類最大のタブーのはずだけど、これはその二つを同時にやってしまっているみたい。しかし殺人シーンなんだから、もっと殺伐としていてもおかしくないんだが・・・ないはずなんだが、どういうわけかこの一連の母子の殺し合いのシーンに、ブラックユーモアのにおいを感じてしまったのは何故でしょう。
刃物を向ける母親に息子が、
「おかあさん」
って呼びかける言い方がなんだか凄くおかしくて、思わずへらへら笑ってしまいましたよ。
なんでかなあ。
市原悦子が怪演過ぎて、普通に見られなくなっているせいかなあ。

母親が刺された瞬間の「いったああーーーいい」という叫び声は、処女が破瓜の瞬間に上げる悲鳴のようだし、「死ぬう、死ぬよう」ていう声は、アクメの瞬間の台詞のようだ。
とか冷静に分析してしまう自分が嫌。
多分、脚本家はそういう暗喩を含めて書いてるんだろうけどね。この年代の創作者達はみんな、精神分析の基礎は教養として持っているのかもしれないし。だって、性的隠喩の使い方が相当露骨だもん。
「よかったじゃん、ババア。望み通りに息子に貫いてもらえてさ。ペニスがナイフに変わっただけだ」とか冷静に考えてしまった私は、つくづく女に容赦がないです。というか、この母親じゃなかったらこの息子も母親殺しなんかしなかったろうに。
これは息子による母殺しだけど、最初で最後の母子のセックスでもあるよなあと。そして最初で最後のエクスタシーの先にあるのが死だったと。
うーん。論理展開が綺麗すぎるな。こんなに理性的な脚本でいいのかしら。
と思っていたのだけど、後半は割と感傷的だったから、前半は脚本家の、後半は監督の<色>みたいなものが強く出ていたのかもしれないですね。

親は子供に異性を見ることがあるかもしれない。でもその逆はほとんどない。
出来るものならば、人は自分が産み落とされた瞬間に、父親には去勢を、母親には貞操帯をつけさせて、男と女であることから脱落して、ただの<父親>と<母親>という無性の存在になってもらいたいのだ。
そうでなければ、子どもは家族という密室の中で、親の性欲の対象にされる恐怖に絶えず晒されながら生きていくことになってしまう。

母性は、生み育てるという肯定的な面と、抱え込む・呑み込むという否定的な面を持っている。両面の共通点は「包含する」こと。子どもは、柔らかな母親の腕の中で慈しみ育てられる。しかしいつかはその心地よい繭の中から抜け出さなくてはならない。自立するには、精神的な親殺しが必要だ。
だがこの母親は息子が自分の腕の中から出ていくことを許さなかった。
あまつさえ夫が死んだのをこれ幸いに、息子のペニスと母親のヴァギナを通して、もう一度子どもを自分の胎内に押し戻して、最初からすべてをやり直そうとさえした。

その時に、息子は自分が許されていなかったことを知ったのだ。
生まれ出てきてしまったことにも、無償の愛情を受けることにも。
彼は何の承認も与えられてはいなかった。

しかしそれは、親殺しの要因かもしれないが直接の原因ではない。
人は誰もが親にスポイルされ続けて育つ。それでも大抵の人間は決定的な破滅に至ることなくどうにか成長する。

彼が父親を殺したのはいわば<はずみ>だし、母親を殺したのもいわば<事故>みたいなものだ。どちらも最初から明確な殺意をもって行動を起こしたわけではない。

もしも

父性の権化のような父親でなければ。
母性の権化のような母親でなければ。
何の罪悪感もなく嘘をつく恋人でなければ。
彼が殺人者になることはなかったのだろう。

親殺しの執拗な描写をしていても、殺害に至るまでの理由や、その結果彼はどうなってしまったのか、という解答をを提示することからは巧妙に逃げていたのは「人を殺したことのない俺に、人殺しの心理なんか描けやしないよ」という脚本家の真摯な開き直りなのかもしれず、そして単純な因果論を用いて青春の殺人者の心理をしたり顔で示されるよりも、この描き方のほうがリアルなのかもしれない。

例えばそれは、子どもを殺した子どもにその理由を問うても、はっきりした答えが出てこないのと似ているようにも思える。多分そこに言語化できるような明白な理由なんかなく、ただ人を殺せるだけの条件がそこにあって、その<場>の中にたまたま踏み込んでしまった彼の起こした結果が殺人だっただけなのかもしれない。

<2003.08.13>

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